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「俳句と時間性」の新たな考察のために
<読むことの科学> 律動する俳句空間 ナムーラミチヨ |
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| 下のような書き出しで始まる20ページの小論文です。 アクロバットのファイル形式(520KB)こちらをクリックしてください。 Acrobat Readerが立ち上がってすぐ読めます。 ご感想を寄せていただけると嬉しいです。 namura@shoshi-maimai.com |
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| たとえば、絵画において。芸術家という有名ブランド趣向的競演のサロンから訣別して、無名性へと向かう現代アートが抱えた決意は「概念」だった。人間は何が悲しくてあの、網膜の悦楽をもって溢れる豊かな画面であるべきはずの絵画に、概念を持ち込み、美の原点なるものを追いつめ、それに挑戦してはみにくくなる画面を許し、翻ってこれを美しいと思う心の純化へと自らをうながしてゆくようなことが何んでできたのだろうか。それは個人の人生とか使い古された存在感といったものの投影よりは、同時代において共振すべき無数の身体の断面を、自明の理とする必要がアートの名のもとに求められたからかもしれない。 作品という断面の前でわたしたちの身体もまた断面になる。作品を情感であるいは共感といった丸抱え的態度で思考認識するのではなく、まさに断面と断面との向かい合い。それは作品すべての面に対して垂直の眼差しを注ぐことになる。全身で眼差すアート<見ることの科学>つまり見る側の純化をうながすために、作品を覆う概念をひとつひとつ切りくずしていったのが、20世紀後半の現代アートの仕事であった。 現代俳句の周りにもぐるぐると幾重にも覆うさまざまなレベルの概念や俳句理論がある。 しかし、一句一句の表現のリアリティと詩空間の純粋性を求めてたちあがる作品の姿にくらべて、それを読み込む側の純化と身体の律動感については、かなり未解明のままだ。五七五に集約されるあらかじめ用意された音数律の誘導のリズムに乗せただけでは、俳句の純化された詩空間がつくる詩的律動を語ることはできない。 |
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