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MAIMAI FRIENDSHIP
TEXT BY RYUICHIRO FUJIWARA

三橋敏雄さんとの遭遇
藤原龍一郎
三橋敏雄さんと初めてお目にかかったのは
たぶん昭和四十九年の三月下旬くらいだった
のではないかと思う。私は二十二歳で、まだ
学生だった。
場所は代々木上原の高柳重信、中村苑子両
氏のお住まい。ここは同時に「俳句評論」の
発行所であり、当時「俳句研究」の編集長を
なさっていた高柳さんの仕事場でもあった。
つれて行ってくれたのは現在「豈」の同人
の大屋達治。彼もまだ東大に在学中、その頃
彼は「俳句評論」にも投句していたので、す
でに高柳さんには面識があって、それで、私
を同行させてくれたのだったと思う。
 昭和四十八年に第一回の五十句競作があり
入選者は郡山淳一、私は佳作第二席で、その
年の「俳句研究」十一月号にその応募作から
の抄出十五句が「天動説」という題で、掲載
されていた。引続き、四十九年二月号に「五
十句競作の新人」という特集で「聖痕祭」十
五句が掲載された。それらの作品に、直接、
高柳さんから批評を聞かせてもらう、という
理由での代々木上原訪問だった。
先客として松岡貞子さんが居て、松岡さん
の作品を高柳さんが一句一句、丸やバツをつ
けながら、短評をされていた。大屋達治と私
はその傍らで緊張して、正座していたのだが、
その時、よお!っという感じで入ってこられ
たのが、今思えば三橋敏雄さんだった。
正直いって、私は誰だかわからなかったの
だが、たぶん中村苑子さんか松岡貞子さんの
どちらかの口から「三橋さん」という言葉が
出たので、「ああ、この人が三橋敏雄さんな
のだ」と認識したわけである。
しばらくして私の「短歌研究」二月号の掲
載作品の批評を高柳さんが始めてくれ、そこ
へ三橋さんも加わってくれた。今思えば、こ
んなに贅沢な状況はなかったのに、悔しいこ
とに、この時の批評を私はほとんど覚えてい
ないのだ。断片として記憶に残っているのが
題名の「聖痕祭」を三橋さんが褒めてくれた
こと。「こういう題は読む気がするね」と言
ってくださったこと。私は初めは「花地獄」
という題にするつもりだったと言うと「花地
獄はまずいね。聖痕祭の方がずっと良い」と
やはり三橋さんが言葉を加えてくれた。
その時の題名を採った作は次のもの。
・ 内乱の予感に眩む花地獄
・ 聖痕祭刺青の蝶と刺しちがえ
「花地獄」という題に私が執着していたの
は、寺山修司の『田園に死す』の影響を受け
ていたからだろう。あと、もう一句「Tシャ
ツの背に双頭の鷲を刷り」という句に対して
「若若しい発想だけれど、もうひとひねりほ
しいかな」と言われたこと。
結局、これだけしかおぼえていない。その
あと、どうなったのか、大屋達治の作品にも
高柳、三橋両氏が批評をしたはずなのだが、
それも残念ながら記憶から消えている。
 すでに『真神』は刊行されていたが、私は
まだそれを読んでいなかった。もちろん『ま
ぼろしの鱶』も、ましてや、のちに『青の中』
に収録される三橋敏雄の十代の俳句を知るは
ずがない。
・いつせいに柱の燃ゆる都かな
・またの夜を東京赤く赤くなる
あの時の偶然の遭遇の幸運を私が真に理解
できたのは、もしかすると、三橋敏雄さんが
亡くなった、今、なのかもしれない。


          了