| Toshio Album | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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三橋敏雄略年譜 シリーズ黒田杏子が聞く「証言・昭和の俳句」 第17回/三橋敏雄(「俳句」平成12年5月号/角川書店) 掲載記事より抜粋させていただきました。
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| Murio Suzuki | ||||||||||||||||||||
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三橋敏雄氏が十二月一日に八十一歳で亡くなった。最近は俳句を発表せず座談会、 講演、選句によって経過していた。夏ごろ転倒して救急車で病院に搬ばれた、と伝 わってきたので電話すると、少し胸のあたりが痛むので町の薬局で湿布を買い貼って いる。病院は待たされるので困る、と言っていた。医者嫌いのようであった。 彼は十代の初期に「風」(沢木欣一の「風」ではない)に拠って渡辺保夫に兄事し て俳句にかかわった。後、渡辺白泉、西東三鬼に師事して折からの新興俳句運動に参 加した。この時代に書いた「戦火想望俳句」が山口誓子の激賞で一躍俳壇から注目さ れた。白泉、三鬼の系列としても頭角をあらわした。その頃、 素頭のわれは秀才夏霞 句集『青の中』 を残している。いくらかの稚気と自負がここにある。 一九四〇年(昭和十五年)、「京大俳句」事件がおこり新興俳句人から多くの受難 者が出た。これで新興俳句運動は終息させられた。戦争が終わった時点で西東三鬼、 渡辺白泉、三橋敏雄、鈴木六林男らが各自それぞれの方法で、ひそかに、しかし猛然 と古典の研究に没頭した。それは、北村季吟が『源氏物語』に立ち向かって『湖月 抄』を書いた心境に似ていた。この頃の三橋について同郷の詩人三好豊一郎は古典よ り得た諧謔を指摘した。 三橋とはよく議論をしたが、彼は最後まで追い込むことなく結論を自ら出すことを 回避した。この点を船乗りの習性か、と訊くとその通りと彼は応えた。狭い船の中で 諍うとどちらかが陸に上ることになるともつけ加えた。三橋敏雄の性格温厚の一端で ある。 著作は『まぼろしの鱶』『眞神』『鷓鴣』『青の中』『畳の上』『しだらでん』。 これらの句集もさることながら『現代俳句の世界』全十六巻にわたる解説は労作であ った。実に周到な配慮がなされている。 同門のよしみもあって、彼と談論すると、時制が混乱する場合がある。ところが、 その時の方が相互理解が快調である。われわれは戦争体験をもつ貴重な一人をまた 喪った。 戒名は蒼天院眞觀敏雄居士。敏雄はビンユウとは読まず、トシオである。(俳人) (読売新聞夕刊2001年12月4日付) |
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| koyashiki | ||||||||||||||||||||
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| 早熟と晩成を一身で体現した。 俳句を始めたのは14歳。山口誓子の句集で新興俳句を知り、とりわけ無季俳句の可能性に挑戦した。前線を想像して詠んだ戦争無季俳句<射ち来る弾道見えずとも低し>などが、ほかならぬ誓子から激賞される。いわく「怖るべき作家」。まだ17歳だった。 しかし、第一句集「まぼろしの鱶」を刊行したのは45歳の時。52歳での第二句集「真神」で声価を確立した。盟友だった高柳重信は、「二度にわたってきわめて出色の新人として登場した」と評した。 この間の年月には、新興俳句運動への弾圧、出征、戦後の運輸省航海訓練船での海の男としての生活がある。が、自らの労苦や努力の跡については、ほとんど語らなかった。その潔さは、自分の俳句には、社会的背景や個人的感情を読者が知らなくても鑑賞できるだけの言葉の力を求め続けた態度に通じる。1989年、「畳の上」で蛇笏賞を受賞する。 学生時代から敏雄俳句に傾倒し、親交のあった作家小恭さんは、しばしば「当代一の俳人」と書いた。「伝統も前衛も広く見渡し、作句、批評眼ろもに傑出していた」。句会で指導を受けてきた俳人の池田澄子さん(65)は、「言われた時はわからなくても、何年も後に正しさが身にしみるんです。」と言う。初心者にもけっして手加減しないが、句会が終われば、「本当に穏やかでやさしかった」。 構えるところなく若い人とも交流し、旅先では車座の中心になって、師の西東三鬼や渡辺白泉の思い出、俳句を夜更けまで語った。酒を愛し、たばこを手離さない。俳句と豪放な人柄を慕う信奉者は俳壇内外に少なくなかった。 99年6月から読売俳壇選者に。選評は達筆の楷書で、常にきっちりと字数通り、懇切にルビが振られていた。 生来頑健で、病気知らず。だが、ここ一、二年体調がすぐれなくなった。「実はよれよれになって帰宅することが多かったけれど、皆さんの前では、精いっぱい元気なところを見せようとする人でした」。夫人の孝子さん(59)が気遣っても、医者嫌いを通した。 倒れる一週間ほど前、句会に持参した自筆色紙は辞世の句だったのろうか。 <山に金太郎野に金次郎予は昼寝> |
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| 読売新聞(2002 年1月13日)掲載記事より | ||||||||||||||||||||
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