Toshio Album



三橋敏雄略年譜

シリーズ黒田杏子が聞く「証言・昭和の俳句」
第17回/三橋敏雄(「俳句」平成12年5月号/角川書店)
掲載記事より抜粋させていただきました。





大正 9年(1920) 十一月八日、当時の東京府八王子市に生まれる。父儀平、母セイの次男。長男と三男は嬰児期に死ぬ。家業は絹織物業。父は昭和初期の「ホトトギス」投句者。
昭和10年(1935) 先に家業傾き進学を諦める。八王子市立尋常高等小学校高等科卒業。四月、東京九段下の書籍雑誌大取次店・東京堂(現トーハンの前身)に採用され、昼間は就労。夜間、実践商業学校に学ぶ。五月、社内の「野茨」俳句会に参加。15歳。
昭和11年(1936) 「馬酔木」十月号に一句初入選。16歳。
昭和12年(1937) 「句と評論」同人の渡辺白泉の作品に魅せられて私淑。白泉らの同人誌「風」第三号(八月号)より同人。自選句発表を許される。七月、日中戦争勃発。
昭和13年(1938) 「風」第七号(四月号)に<戦争>と題する無季五十七句発表。山口誓子の激賞を受ける。六月、白泉と共に西東三鬼を訪問、白泉より三鬼師事を慫慂される。
昭和14年(1939) 「京大俳句」二月号から自選句発表の準会員。四月、東京堂退職。三鬼在職の貿易商社紀屋に入社。三鬼のただ一人の部下として働く。普通自動車免許取得。
昭和15年(1940) 二月、「京大俳句」会員。直後、弾圧を受け終刊。五月、徴兵検査、第一乙種。
昭和16年(1941) 六月、『現代名俳句集』に「太古」三橋敏雄集。十二月、大平洋戦争突入。
昭和17年(1942) 四月、紀屋退職。三鬼創設の南方商会を手伝う。十二月、三鬼神戸へ去る。22歳。
昭和18年(1943) 七月、応召。横須賀海兵団入団、水兵。
昭和21年(1946) 運輸省航海訓練所に採用され、以降、昭和四十七年まで
練習船事務長。26歳。
昭和23年(1948) 「天狼」一月号創刊。これに投句者として参加する気なく作句中止を決意。
昭和30年(1955) 『俳句』九月号に<熱帯戦跡行>四十句発表。作句再開。
「断崖」に発表。35歳。
昭和37年(1962) 一月、「天狼」同人。三鬼の推薦によるもので、希望してなかったが遺言のようにきく。四月一日、三鬼死す。
昭和38年(1963) 同人誌「面」創刊に参画。
昭和39年(1964) 十月、庄野孝子と結婚。
昭和40年(1965) 「俳句評論」同人。高柳重信と親昵。
昭和42年(1967) 第十四回現代俳句協会賞受賞。47歳。
昭和61年(1986) 不定期刊「ローム」創刊。監修に当たる。
平成元年 (1989) 第二十三回蛇笏賞受賞。69歳。


Murio Suzuki
三橋敏雄さんを悼む
「新興」から古典研究へ
性格温厚な「船乗り」気質
鈴木六林男

 三橋敏雄氏が十二月一日に八十一歳で亡くなった。最近は俳句を発表せず座談会、
講演、選句によって経過していた。夏ごろ転倒して救急車で病院に搬ばれた、と伝
わってきたので電話すると、少し胸のあたりが痛むので町の薬局で湿布を買い貼って
いる。病院は待たされるので困る、と言っていた。医者嫌いのようであった。
 彼は十代の初期に「風」(沢木欣一の「風」ではない)に拠って渡辺保夫に兄事し
て俳句にかかわった。後、渡辺白泉、西東三鬼に師事して折からの新興俳句運動に参
加した。この時代に書いた「戦火想望俳句」が山口誓子の激賞で一躍俳壇から注目さ
れた。白泉、三鬼の系列としても頭角をあらわした。その頃、
 素頭のわれは秀才夏霞
           句集『青の中』
を残している。いくらかの稚気と自負がここにある。
 一九四〇年(昭和十五年)、「京大俳句」事件がおこり新興俳句人から多くの受難
者が出た。これで新興俳句運動は終息させられた。戦争が終わった時点で西東三鬼、
渡辺白泉、三橋敏雄、鈴木六林男らが各自それぞれの方法で、ひそかに、しかし猛然
と古典の研究に没頭した。それは、北村季吟が『源氏物語』に立ち向かって『湖月
抄』を書いた心境に似ていた。この頃の三橋について同郷の詩人三好豊一郎は古典よ
り得た諧謔を指摘した。
 三橋とはよく議論をしたが、彼は最後まで追い込むことなく結論を自ら出すことを
回避した。この点を船乗りの習性か、と訊くとその通りと彼は応えた。狭い船の中で
諍うとどちらかが陸に上ることになるともつけ加えた。三橋敏雄の性格温厚の一端で
ある。
 著作は『まぼろしの鱶』『眞神』『鷓鴣』『青の中』『畳の上』『しだらでん』。
これらの句集もさることながら『現代俳句の世界』全十六巻にわたる解説は労作であ
った。実に周到な配慮がなされている。
 同門のよしみもあって、彼と談論すると、時制が混乱する場合がある。ところが、
その時の方が相互理解が快調である。われわれは戦争体験をもつ貴重な一人をまた
喪った。
 戒名は蒼天院眞觀敏雄居士。敏雄はビンユウとは読まず、トシオである。(俳人)
(読売新聞夕刊2001年12月4日付)


koyashiki
言葉の力求め続けて
小屋敷 晶子
 早熟と晩成を一身で体現した。
 俳句を始めたのは14歳。山口誓子の句集で新興俳句を知り、とりわけ無季俳句の可能性に挑戦した。前線を想像して詠んだ戦争無季俳句<射ち来る弾道見えずとも低し>などが、ほかならぬ誓子から激賞される。いわく「怖るべき作家」。まだ17歳だった。
 しかし、第一句集「まぼろしの鱶」を刊行したのは45歳の時。52歳での第二句集「真神」で声価を確立した。盟友だった高柳重信は、「二度にわたってきわめて出色の新人として登場した」と評した。
 この間の年月には、新興俳句運動への弾圧、出征、戦後の運輸省航海訓練船での海の男としての生活がある。が、自らの労苦や努力の跡については、ほとんど語らなかった。その潔さは、自分の俳句には、社会的背景や個人的感情を読者が知らなくても鑑賞できるだけの言葉の力を求め続けた態度に通じる。1989年、「畳の上」で蛇笏賞を受賞する。
学生時代から敏雄俳句に傾倒し、親交のあった作家小恭さんは、しばしば「当代一の俳人」と書いた。「伝統も前衛も広く見渡し、作句、批評眼ろもに傑出していた」。句会で指導を受けてきた俳人の池田澄子さん(65)は、「言われた時はわからなくても、何年も後に正しさが身にしみるんです。」と言う。初心者にもけっして手加減しないが、句会が終われば、「本当に穏やかでやさしかった」。
 構えるところなく若い人とも交流し、旅先では車座の中心になって、師の西東三鬼や渡辺白泉の思い出、俳句を夜更けまで語った。酒を愛し、たばこを手離さない。俳句と豪放な人柄を慕う信奉者は俳壇内外に少なくなかった。
 99年6月から読売俳壇選者に。選評は達筆の楷書で、常にきっちりと字数通り、懇切にルビが振られていた。
 生来頑健で、病気知らず。だが、ここ一、二年体調がすぐれなくなった。「実はよれよれになって帰宅することが多かったけれど、皆さんの前では、精いっぱい元気なところを見せようとする人でした」。夫人の孝子さん(59)が気遣っても、医者嫌いを通した。
 倒れる一週間ほど前、句会に持参した自筆色紙は辞世の句だったのろうか。
<山に金太郎野に金次郎予は昼寝>
読売新聞(2002 年1月13日)掲載記事より
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